律令国家の成立

律令国家の形成

孝徳天皇の末年、中大兄皇子は難波を去って飛鳥に移った。このころ朝鮮半島では新羅が統一にのりだし、660年、唐と協力してまず百済をほろぼした。百済ではそののちも豪族が兵をあつえmて唐や新羅の軍に抵抗し、日本に救援を求めた。
調祚した斉明天皇はこれに応じたが、朝鮮半島にわたって日本軍は、663年、白村江の戦いで唐軍に敗れ、朝鮮からしりぞいた。
新羅はそののち、唐と連合して高句麗をもほろぼし、676年には唐の勢力を追い出して、朝鮮半島の統一を完成した。
白村江の敗戦後、中大兄皇子は新羅や唐の動きに対処して国防の強化をはかるとともに、内政に力をそそいだ。皇子は667年、都を近江に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は最初の令である近江令を定めたといわれ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍をつくり、改新政治の推進につとめた。

天智天皇の死後

大化の改新以来、30年近くも政治にあたっていた天智天皇が死去すると、翌672年、天智天皇の弟大海人皇子は、天皇の子大友皇子を擁する勢力と対立して吉野で兵をあげ、美濃に移って、ここを本拠地として東国から兵をあつめ、大和地方の豪族の協力をえて近江の大友皇子の朝廷を倒した。
この乱ののち、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。
壬申の乱によって強大な権力をにぎった天武天皇は、その権力を背景に皇族を重く用いて天皇中心の政治を行い、中央集権国家建設の事業を協力に推し進めた。
天皇は官吏の位階や昇進の制度を定めて、旧来の豪族を政府の官吏として組織し、八色の姓を定めて、豪族の天皇中心のあたらしい身分秩序に編成した。

中央集権国家

天皇は、律令や国史の編纂にも着手した。
天武天皇のあとは、皇后であった持統天皇がその事業をひきつぎ、中央・地方にわたる統治機構をととのえ、飛鳥浄御原令を施行するなどして律令体制の整備につとめた。 こうして、天武・持統両天皇の時代に、大化の改新以来の中央集権国家建設の事業は、ようやく完成に近づいた。